レビ記5章

5:1 人が罪に陥ったとき、すなわち、その人自身が見ていたり知っていたりする証人であるのに、証言しなければのろわれるという声を聞きながらも、それをしない場合、その人は咎を負わなければならない。

 人が罪を犯したことについて、具体的な事例か示されています。それは、誓いの言葉を聞いていながら、それをしない場合です。彼が見たり、知っていることを証言しない場合です。

 ここで、それが「咎を負う」とされるのは、誓いを聞いていながら行わないことによります。彼は、主に対して罪を犯したのです。誓いは、主の前に行います。その主の存在を無視することが罪とされています。聖なることを犯すのです。

・「罪に陥った」→罪を犯す。

・「証言しなければのろわれるという声」→誓いの言葉。

・「咎」→罪に対する責め。処罰の対象とされたこと。これは、内面の罪に関しても言えること。罪は、内住の罪と、具体的に犯された罪がある。心のうちに抱く悪い考えなども罪である。律法では、具体的に犯された罪が処罰の対象となる。

5:2 あるいは、汚れた生き物の死骸であれ、汚れた家畜の死骸であれ、汚れた群がるものの死骸であれ、何か汚れたものに触れて汚れていたのに、そのことが彼には隠れていて、後になって責めを覚える場合、

 汚れた生き物の死骸などに触れて汚れた者になっていて「気付かずにいたが、有罪になるなら、」すなわち、その人が罪を犯したとわかった場合についてです。

 イスラエルに対しては、ご自分が聖なる者であるから、聖であれと求められました。それで、聖い食物と汚れた食物を区別されたのです。ですから、これは、聖なることを求められていることに対して、罪を犯したことを表しています。

 これは、比喩になっていて、汚れた生き物は、神から離れて汚れた人たちを指しています。その死体に触れることは、神の前に死んだ行いをしていることに関与することです。神から離れた人と交わっても罪になりませんが、その行いを共にするならば、汚れることがあるのです。

 汚れた家畜を飼うならば、すなわち、身近に神から離れた人と暮らすならば、余計に汚れを受ける可能性は高くなります。

 群がる汚れたものは、神から離れた行動を共に取る人たちです。そのように群がるものから離れて、聖さを保つことの難しさを教えています。

・「隠れていて」→気付かない。

・「後になって責めを覚える」→有罪になる。

5:3 または、いかなるものであれ、触れれば汚れると言われる人間の汚れに触れ、そのことを知ってはいたものの彼には隠れていて、後になって責めを覚える場合、

 人に関しても、触れれば汚れるものに触れた場合です。人間の汚れは、例えば、人のうちから出てくるものです。人を汚すことを表すもの、あるいは、ツァラートなどの肉の現れを表すものなどがあります。これも、人の肉による汚れと、聖なるものが対比されています。

 なお、そのことを知ってはいたものの彼には隠されているというのは、奇妙な説明です。知っていたならば、罪とされます。また、彼がそのことが罪に当たるかどうかの知識を持っていようが持っていまいが、それがしてはならないことと知った時、彼は、罪とされます。

・「そのことを知ってはいたものの彼には隠れていて、後になって責めを覚える場合」→それについて隠されていて、そして、彼がそれを知り、そして、罪ありとされた場合。

5:4 また、害になることであれ益になることであれ、誓ったことが何であれ、人が軽々しく口で誓った場合、そのことを知ってはいたものの彼には隠れていて、後になってその一つについて責めを覚える場合──

 また、軽々しく誓って、それについて隠されていて、そして、彼がそれを知り、そして、罪ありとされた場合。

 これにより、彼は、誓いを果たさないことで罪とされます。神にかけて誓ったにもかかわらず、これを破ることは、神を聖なる方としないことです。人の都合で変えてしまうからです。人の都合を優先させるのであり、神を低く見ることなのです。

5:5 これらの一つについて責めを覚える場合には、自分が陥っていた罪を告白し、

5:6 自分が陥っていた罪のために償いとして、羊の群れの子羊であれ、やぎであれ、雌一匹を主のもとに連れて行き、罪のきよめのささげ物とする。(そして、)祭司は彼のために、罪を除いて宥めを行う。

 これらの一つでも、罪あるとされた場合は、それらについて罪を犯したことを告白します。

 そして、彼は、彼の「罪過」(と呼ばれる捧げ物)を、彼が犯した「罪」のために、羊の群れの子羊であれ、やぎであれ、雌一匹を「罪」(と呼ばれる捧げ物)として、主のもとに持ってくる。

 彼の「罪過」(と呼ばれる捧げ物)は、「罪」(と呼ばれる捧げ物)として持って来られると規定されていて、彼が犯した罪の種類によって、その捧げ物は、「罪過」(と呼ばれる捧げ物)ですが、本質的には、「罪」(と呼ばれる捧げ物)であることが分かります。

 罪に関して、祭司は、彼のために、彼の罪から宥める。

 捧げ物は、子羊が挙げられます。それは、イエス様の比喩であり、人となられて、父の聖なることを求められました。神の御心を行うことでそれを表されました。また、かしらとしての神に従う一人の信仰者として、歩まれ、御心を行われたのです。以下の聖句のように、イエス様は、父が聖なる方であることを言い表しています。

マタイ

6:9 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。

ヨハネ

17:11 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。

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5:7 しかし、もしその人に羊を買う余裕がなければ、自分が陥っていた罪の償いとして、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を主のところに持って行く。一羽は罪のきよめのささげ物、もう一羽は全焼のささげ物とする。

 羊を買う余裕のない人は、鳩を持って来ることができます。山鳩の場合は、二羽、家鳩の場合には、雛二羽です。鳥は、イエス様の神としての面を表しています。ここで取り上げられている罪は、神を聖なる方とすることを求められているのに、それを現さなかった罪です。その罪の捧げ物が神であること、すなわち、聖なることを表す鳥であることは、ふさわしいことです。特に、家鳩の場合には、雛が指定されています。それは、イエス様が人となられて、神の御子としての栄光を現されたことが父を満たされたことに基づいています。本来、現されるべき比喩は、神の御子の栄光なのです。しかし、現実問題として、山鳩の産卵は、年二回程度です。それに対して、家鳩の産卵は、年五回程度です。雛を手に入れやすいのです。

 一羽は、罪のきよめの捧げ物です。もう一羽は、全焼の捧げ物です。この二つが主を宥めるのです。他の罪のための捧げ物も、罪のために捧げられる部分と、脂肪が神の食物として捧げられたように、神を満たす二面があります。

・「自分が陥っていた罪の償い」→彼の罪過のために。

5:8 彼はこれらを祭司のところに持って行き、祭司はまず、罪のきよめのささげ物となるものを献げる。彼はその頭の首のところをひねる。しかし、それを切り離してはならない。

5:9 それから罪のきよめのささげ物の血を祭壇の側面にかけ、血の残りはその祭壇の土台のところに絞り出す。これは罪のきよめのささげ物である。

 罪のきよめの捧げ物は、頭の首のところを捻り、血を祭壇の側面にかけ、残りを祭壇の土台に注ぎます。頭を捻るのは、神としての立場を捨てることを表しています。しかし、切り離されないのは、神でなくなることはないからです。人となられて、神の奴隷として仕える姿をとられことを表しています。そして、十字架の死にまで従われました。

 祭壇の側面に振り掛けられたことは、血が神の前に覚えられるためです。肉の命を捨てたことすなわちご自分を捨てた偉大さが現されるためです。

 土台に注いだことは、罪の贖いのために命を捨てたことを表しています。

 ここには、肉を捨てた偉大さと、贖いのために命を捨てたことの両面が表されています。

ピリピ

2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、

2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。

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 神が、ご自分を捨てた偉大さが示されています。それは、父を満たすものでした。

・「かける」→振り掛ける。

5:10 祭司はもう一羽のほうも、定めにしたがって全焼のささげ物とする。こうして祭司はその人のために、陥っていた罪を除いて宥めを行う。そして彼は赦される。

 もう一羽は、全焼のいけにえです。イエス様の人としてのご生涯の全ては、父を満たされたのです。神の御子としての栄光を現されたからです。

 人に求められていることは、父を聖なる方とすることであり、その人自身が聖なるものであることです。主イエス様は、それを見事に現され、父を満たされたのです。

5:11 もしその人が、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽さえも手に入れることができないのなら、自分の罪のために、ささげ物として、十分の一エパの小麦粉を罪のきよめのささげ物として持って行く。その人はその上に油を加えたり、その上に乳香を添えたりしてはならない。これは罪のきよめのささげ物であるから。

 さらに貧しい人については、小麦粉に代えることができます。その量は、十分の一エパです。この原語は、十番目を意味しており、十に意味があります。十は、到達点を表していて、成し遂げたことを表しています。人として、神の御心を成し遂げたことを表しています。ここで取り上げられている罪は、誓ったが果たさなかったことで罪を犯したことです。そのために神を聖なる方としませんでした。成し遂げなかったことが問題なのです。それで、捧げ物は、十分の一エパなのです。イエス様は、神の御心を成し遂げられたのです。

 油を加えず、乳香が添えられないのは、穀物の捧げ物として礼拝のために捧げられるものではないからです。

 これは、聖霊によって御心を成し遂げたことに注目しているのではなく、人として御心を成し遂げたことに注目しています。

 乳香が添えられないのは、歩みの尊さに注目しているのではなく、成し遂げたことに注目しているからです。もちろん、乳香によって表される歩みの尊さは、非序に尊いのですが、注目点が違うのです。乳香は、歩みの一つ一つの尊さに注目しますが、ここでは、全てを成し遂げることに注目しています。

5:12 その人はそれを祭司のところに持って行く。祭司は、その中からひとつかみを覚えの分として取り、祭壇の上で、主への食物のささげ物とともに焼いて煙にする。これは罪のきよめのささげ物である。

 小麦粉の中から、一掴みをを主に捧げます。それは、主の食物の捧げ物とともに捧げられることで、その小麦粉も主の食物として主を満たすことを表しています。父は、御心を成し遂げたことを喜ばれ、満足されました。

5:13 こうして、祭司は彼のために、陥っていたこれらの罪の一つのゆえに宥めを行う。そして彼は赦される。その残りは、穀物のささげ物と同様に祭司のものとなる。」

 その小麦粉によって犯した罪の宥めがされ、彼は、赦されます。残りは、祭司のものとされます。その捧げ物は、祭司にとっても味わうべき尊いものです。人として御心を成し遂げたことは、祭司の完全な模範です。

5:14 主はモーセにこう告げられた。

5:15 「人が信頼を裏切ることをしたとき、すなわち、主の聖なるものに関して気づかずに罪に陥ってしまった場合、羊の群れから傷のない雄羊、それも、聖所のシェケルで数シェケルの償いの銀に相当すると評価される雄羊一匹を、代償のささげ物として主のもとに連れて行く。

 人が不実を行なった場合、すなわち、主の聖なるものに関して気付かずに罪を犯した場合には、「罪過」(と呼ばれる)捧げ物を主のもとに連れて来ます。それは、聖所のシェケルで数シェケルの銀とあなた(モーセ)が値積りした、群れからの傷のない雄羊で「罪過」(と呼ばれる)捧げ物として主のもとに連れて来ます。

 代償の捧げ物は、償いを伴う捧げ物としてこのように訳していますが、この語は、すでに六節に用いられている語であり、「罪過」(と呼ばれる)捧げ物のことです。

・「信頼を裏切ること」→忠実でないこと。不誠実な行い。不信の行い。不実。

5:16 その人は、その聖なるものに関して罪に陥っていたことの償いをする。それにその五分の一を加えて、祭司に渡す。祭司は、その代償のささげ物の雄羊をもって彼のために宥めを行い、彼は赦される。

 聖なるものに関して犯した罪の償いをします。五分の一をそれに加えます。雄羊は、主イエス様を表しています。主イエス様は、聖なるものを聖なるものとされた方であり、人としての歩みの中に従順に御心を行うことでそれを表されました。その羊の評価は、銀で数シェケルです。銀は、贖いを表しています。肉にはよらない贖われた者の歩みがそれによって表されています。

 それに加える五分の一も贖われた者の歩みを表しています。この場合、五に意味があります。その数字によって、御心を行うことが表されています。聖なることは、神の御心に従って生きることによって表されるのです。

5:17 また、もし人が罪に陥っていて、主がしてはならないと命じたすべてのうち一つでも行いながら自覚がなく、後になって責めを覚えるなら、その人はその咎を負う。

 また、もし、人が罪を犯し、主がしてはならないと命じたすべてのうちの一つでも行い、自覚がなく、有罪とされたなら、その人は、咎を負う。

5:18 その人は羊の群れから、代償として評価された、傷のない雄羊一匹を祭司のところに連れて行く。祭司は彼のために、彼が自覚せずに、また気づかずに犯した過失のゆえに宥めを行う。そして彼は赦される。

 その人は、あなたが(モーセが)値積りした、羊の群れからの傷のない雄羊一匹を祭司のところに連れてくる。祭司は、彼の過失のために宥めを行い、彼は、赦されます。

5:19 これは代償のささげ物である。彼は確かに主の前に償いの責めを負っていた。」

 これは、代償のための捧げ物で、他の罪のための捧げ物とは区別されます。